兵庫RC(ランニングクラブ)

小学生から大人まで幅広い層のチームでの様々な連絡や報告、そして私の考え方や理論を上げて行きます。

駅伝で日本は世界と闘えたのか

日本は駅伝の好きな国である。小学生から実業団まで、都道府県、市区町村、一般市民大会まで、一年を通し、特に秋から冬に掛けてありとあらゆる駅伝大会が開催される。

しかし、駅伝があるのは日本だけ。他国では、それはやらない。浸透すらしない。なぜだろうか。

そもそも、陸上競技と言うのは個人競技です。力を発揮する為には、己の力を信じ、考え、試していく。周囲の助言はあっても、責任を取るのは全て自分自身の為、信じるのは自分自身。そこに言い訳と甘えは削がれていく。他国で、陸上競技を取り組み極めていく方々は、無意識レベルでその事が浸透している。

しかし、駅伝を愛する日本は、チームで一番にならなくても走る事ができ、駅伝メンバー全体の力が高ければ、自分が一歩遅れていても、入賞はするし、あわよくば優勝も可能となる。そこに自己を極限まで高めようと言う意識はと考えると、どうだろうか。それこそ、無意識レベルの甘えが生じるのではないだろうか。

それが、世界との差となっているのだと私は考える。

日本人は行動にドラマを作り、そのドラマを演じたり外から見る事が好きな民族である。一人で行わない駅伝は、そんなドラマのストーリーに打ってつけだ。人気が出る訳ですし、メディアが大きく取り扱うのも無理もない。

しかし、その結果が世界との差を大きくし、そこで満足をして競技を終える人間を増やしているのは、間違いないであろう。

私は駅伝が駄目だと言うのではない。日本人全体が、駅伝に対する過剰な思いと考え方を変えなければ行けないし、陸上競技に対する駅伝の位置付けを変えて行く必要があると言いたいのだ。

さもなければ、日本と世界との差は、今後ますます開いて行く事だろう。

世界で活躍するのは、そんなに甘くない。それで、本当に良いのだろうか…。